「愛ってなに?」と聞かれたら、かっこよく答えたいので。

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「愛ってなに?」って、今まで何度も自問自答してみたけど、これぞという答えにたどりつけたことは、ない。

なので、説明できない単語は使わない主義ゆえ、愛という単語を使った覚えは、あまりない。

 

愛の定義

例えば「子どもを愛しているでしょ」と聞かれたら、首をかしげるかもしれない。

確かに産んだ直後からしばらくの間は、愛しているという状態にあったのかもしれない。

ひたすら守りたいと思った、それこそは、無条件の愛?

しかし、それは、子どもがひとりでは生きていけないから。生き物としての本能。

ひとりで生きていける今、あのオヤジ風情の息子たちを愛しているのかと聞かれると、答えに困る。

いつまでたっても、子は子というけれど。あの人たちのこと、好きではあるけれど。

とすると、愛はかつてはあったけれど、いつの間にか消えるもの?

では、子どもの身に何か起きて、命をかけて身代わりになれるのなら、愛ある人に認定されるのか?

しかし、それも、その場に立ってみないと、なんとも言えないなあ。

確かに、代われるものなら、代わりたいと思う場面もないことはないだろう。だけど、それも最初から不可能だという場面も多い。

夫が痛みに苦しんでいたとき、どうしても代わってやれず、心の中で謝ったことがある。

その代わり、自分の身に同じような苦しみが来たら、それはちゃんと受け止めるからと、神様と取り引きした。

でも、よく考えたら、本当に身代わりになれたかどうかはわからない。いざとなったら、ひるんだに違いない。

ああ、わからない(笑)

 

男女の愛

もっとも範囲を限定して考えてみよう。

狭い意味で思いつくのは、男女の愛。

思い起こしてみるけれど「愛している」なんて言ったことはないはず。

好きというのは、言ったかもしれないけれど。

好きという感情なら、よくわかる。

大好きという感情もよくわかる。

だけど、男女間においても、どんなことを「愛」というのか、よくわからない。

男女の思いの行き着くところは、独占したいという思い。一体化したい。

なんで一体化したいのか、それもそもそも謎ではある。生き物としての本能と言われれば、それまで。

それを愛と呼んでも、いい?

そういえば、こんなこともよく言われている。

「相手の幸せを望むことが、愛だ」って。

そうなの?

相手が想定している幸せに、付き合いきれないことも多い。

「本当の愛」なんて、よく聞くけど、ますますわからない。

そんな愛、うそっぱち〜ん!(笑)

 

愛せない人?

『ひとを愛することができない』中島義道著

そんなことを思っているものだから、こういうタイトルの本に惹かれる。

この本を書いた人は哲学者。わたしより10歳ほど年上の方。

読んでみたら、内容は、ものすごく個人的な話で驚く。あららら。

中島さんの育ってきた家庭の打ち明け話。

愛されたい母親と、人を愛することができない(と著者が思っている)父親。

中島さんの父親と母親がどこまでも分かり合えない夫婦で、その分析がこの本の大きな柱になっている。

2人とも、とても常識的などこにでもいそうな夫婦。人を愛することができないお父さんも、普通のいい人。

ああ。読みながら、蘇ってくる我が少女時代。

思えば、わたしの育った家も、そんなもんだったなあ。

読みながら、何度も笑ってしまった。客観視してみると、人の営みはどこか滑稽ですらある。

 

少女時代のこと

わたしは家族一緒の行動なんて、ものすごく嫌いだった。出先で両親が必ず揉めるからだ。

母はいつも父の言うこと為すことに不満を抱いていたし、父はそんな母が起こすヒステリーに戸惑っていたし。

中島さん風にいえば、あれは、母が愛を求めていたってことのようだ。

つまり、わたしの母も愛されたかったらしい、あの父に!

タンスの前で泣きながら荷物をまとめている母を、一応引き止めるべきだろうなと、妙に冷静だった自分を思い出す。

父と揉めると「もう、ここにはいられない!」と大騒ぎしていた。

わたしの横には泣きながら正座している妹がいた。

どうせパフォーマンス。出ていかないだろうということに、5年生のときには気づいていたような気がする。

母の思う愛。それは、自分が望んでいるような対応を父にしてほしいということ。

こう言ったら、こう返して。思っていることを察してほしい。

だけど、そんなこと、無理に決まってる。

父が亡くなる直前まで、父への不満は続いていた。死んでから、やっと父は母の「最愛の人」に認定された。

つまり、こういうことかもしれない。

「どうしてわかってくれないの!」

なんだかんだ、ヒステリックに叫ぶ人は、たくさん愛されたい人。

叫ばない人は、愛なんてものを、それほど要求していない人なのだろう。

そう思ったら、あの人もあの人も愛おしくなってきた(笑)

だけど、「愛」って、そんなもんなの?

 

人との距離感

この本を読んで再認識したのは、わたしはわたし以外の人との線引きがかなりはっきりしているのだということ。

あくまでも、人は人。わたしはわたし。

だからなのか、あまり愛されたいという欲求がない。

愛されたいと願う人は、人と人との境界線が曖昧なのかもしれない。

人が自分のように考えるものだと信じられるのだから。

こんなフレーズが印象に残った。

私がこの世でいちばん怖いもの、それは愛を無条件に要求する人の目である。

愛されたいという人が愛されていないことを自覚したとき、人間は最も残酷になりうる。

現代日本では、愛されなかった者が、自分を愛すべき者を告発し続け、絶対に許さないという構図が大手を振って罷り通っている。

(引用:「ひとを愛することができない」より)

愛こそすべて!

 

愛と幸福の関係

愛されることを求めれば、幸せを感じることからは遠ざかる。

逆説的だけど、それが真実かもしれない。

人からの愛なんて、期待してはいけないもの。

愛というものがどういうものかは、結局よくわからないけれど、それは期待すべきものではないということは確かなようだ。

中島さんのお母さんは、夫を送って4年後に亡くなるのだけど、夫亡きあとも、夫への恨みつらみは消えることがなかったという。たぶん80歳を過ぎてなくなったようだ。

最後の最後まで納得しなかった。できなかった。

妻なのに、愛されたかったのに、愛されなかったから。

妻なのに、妻なのに・・・。

こうして彼女には三人の子供たち、多彩な友人たち、なに不自由ない老後など、すべてが与えられた。だが、夫からの愛が与えられなかった。だから、不幸であった。不幸のどん底であえぎながら死んでいったのである。

(引用:同上)

哲学者の説く「愛」も、やはりよくはわからなかった。

こんな本を読んだせいで、頭の中はさらにぐちゃぐちゃになってしまったというのが、結論といえば結論。

だけど、刺激にはなった。

こういう切り口で考えてみるのも、なかなか面白かった。

果たして、死ぬまでに「愛ってなに?」ということに、かっこよく答えられる日が来るのだろうか。


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りっつんブログが本になりました。

経験談や人情話から猫話。そして実用的な老後のお金の話まで。心を込めて綴りました。

「老後のお金」など、ブログではあまり触れていない話題にもかなり踏み込んで書いているので、お手にとって頂ければ幸いです。

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12 件のコメント

  • りっつんさん おはようございます

    愛って何?
    決して後悔しないこと?
    見返りを求めないこと?
    いろんな考え方があると思いますけど、私は愛と
    は執着だと思っています。
    他の人、他のものには変えられない強い思いでは
    ないかと。
    今は、誰にも何にもそれほど強い思いはなくて、
    楽なような物足りないような日々です(笑)

    • 相棒さん

      おはようございます。

      愛と執着・・・
      確かに、この二つ、関係が深い。

      愛って言葉ほど、意味がたくさんある言葉もないですよね。

      わたしも楽で、物足りないけど、それで満足な日々です。

  • こんにちは…愛ですか( ^ω^)・・・難しいかもしれませんが私が今生かされていることは誰かに愛されて必要とされているのかなと思うことにしています。好きは素直に言えますが…愛してるはまだ未知のせかいかもですね。いつも楽しく拝見しています。

    • 埴輪さん

      おはようございます。

      たまには、壮大なテーマもと、思いまして(笑)

      「愛している!」と、叫んでみたいけれど。
      たぶん、時々、引き出しから出しては考え続けて、
      終わっていくような気がしています。

  • 姐さん、読み応えありました。
    私にとって新しい切り口が入ってきて、刺激を受けました!
    それで、姐さんに問いたいことができました。
    自分自身のことは?
    愛していますか?

    中島氏の母御(と姐さんの母御)の仰る『愛』は
    何でしょうね…形を変えた承認欲求にも思えます。
    先日NHKのファミリーヒストリーで取り上げた
    元アイドルの男性タレント(50代半ば)。
    仕事ばかりで家庭を顧みなかった
    今はもう亡き父に未だ蟠りを抱いていました。
    それと似ているように感じました。
    夫として父として望まれる役割をちゃんと果たせ、
    愛しているなら自ずとするはずだ!と。
    愛されていないと感じることそのことが、
    自分の存在を傷つけたのでしょうか。

    私が思うに愛って多分神様の領域のこと。
    「神の似姿」として創造された人間は、
    その愛をも真似るべく、
    転生して修行を重ねているのかもしれません?????

    • デイジーさん

      おはようございます。
      姐さんは、たまに、こねてみたくなるんだよ(笑)

      わたしは自分のことだけは、愛しています。というか、大好きです(笑)

      “愛されていないと感じることが、自分の存在を傷つける”

      愛されていると感じることも、
      愛されていないと感じることも、自分。
      なのに、どうしてもほかの人の力が必要になる。
      人の間でしか、生きられないのが人間だから、
      仕方ないのかな。

      だから、わたしも、愛は神様の領域だと思っていますヾ(@⌒ー⌒@)ノ

      • 姐さん、こんにちは。

        砂粒説、美しいですね♪
        私は生涯かけて『砂粒』を集めているんだと腑に落ちました。多分その『砂粒』は柔らかく光っている。光の粒だと思います。神の領域説とも整合とれます( *´艸`)
        孫とのひと時を夫にも味わってもらいたかったお気持ちを読んだとき
        私はそれは愛だと感じました。
        だからきっと美しい砂粒だったのだと思います。(読んだ私にとって、ですね)

        そして!
        やはり姐さんはご自分を愛してらしゃるんですね!
        私が見聞きするところ…なんですが
        どうやらそれが要のようなんです。
        世には自分を愛している人とそうでない人がいるようです。
        人との間に感情は生まれるでしょう。が、それによって自分の存在が傷つくとなれば話がまたベツです。
        つまり、
        自分を愛していないと宙ぶらりんで心許なく不安定で孤独、それで外に縋るモノを求めることもあって行き過ぎれば依存にだってなりかねないということなんです。
        幼な子なら保護者に依存するのが当然なのですが、成長して尚相手を変えながら依存を続けるのは、当人にも周囲にも難儀なことです。

        この「自分を愛するということ」
        ごく自然にスムーズに身につく人とある時点で気づいて意識して身につける人がいるみたいです。
        もしくは元来知っていたものを思い出せるか思い出せないか、かもしれません。
        そんなこと意識にも上らずに終わる人もいることでしょう。

        ある時、ふとフレディ・マーキュリーの『I was born to love you』が聞こえてきて、
        ピコン♬ と気づきました。そして胸の奥深くに宿りました。
        あなたを愛するために生まれてきた──「you って自分自身のことだったんじゃない‼︎」
        そして私の奮闘努力は始まり、未だ道半ばです。
        漸進しております(`_´)ゞ

        • デイジーさん

          こんばんは

          自分を愛せるかどうか。

          愛しているというのか、
          自分のことをとても大事だと思えるのか。

          これは大きな問題かもしれませんね。
          わたしの場合、自然に身についたのか、意識したのか。
          いまとなっては分かりませんけれど。

          自分のことって、わかっているようだけど、
          わからないこともたくさんあるように思うのです。

          だから、これからわたし、
          どうなっていくのかとか、
          なにに驚くんだろうかとか、
          なにをうれしがるんだろうかとか、
          とても興味があるのです。

          最後まで、自分ととことん付き合ってやる。
          それが、わたしにできることかなと思っています。

  • りっつんさん、こんにちは!

    愛っていうとすごく大袈裟な気がしますが、私が考えるのはふとした瞬間に他の誰かの事を考える時間や行動のことかなと思います。

    例えば、買い物をしてる時に(これ〇〇が好きだったな)とか(この洋服似合いそうだな)とか、綺麗な物を見た時に(〇〇さんにも見せてあげたいな)とか…

    イヤイヤしてる食事作りでも、一応は栄養バランスを考えて作ってるとか┐(´ー`)┌

    ひとつひとつは些細な砂粒ほどの愛ですが、チリの積もれば…で少しずつ溜まってその人を作ってるような気がします。愛する方も愛される方も。
    砂粒ほどなので、ふとしたことで飛ばされることもあるんでしょうが、それも年数経つと吹き飛ばされつつ下の方では固まって残っているような…
    私はそんな風に感じています。

    りっつんさんの読書感想文、楽しみにしてます。
    この本も読んでみますね!

    • ヨナメさん

      おはようございます。

      わたしにも、そういう瞬間あります。
      あの人にも見せてあげたい!
      あの人に食べさせい!

      砂粒も集まれば、砂場となる。

      飛ばされなかった砂が、下のほうで固まっている。

      とっても、響きました。

      積んでみて、最後に見た景色から、
      感じられるものが愛かもしれないね。

      ありがとう!

  • 私も、愛してるとは言わないタチで、考えた事がありました。夫婦愛、親子愛、兄弟愛、師弟愛。。血縁、他人入り雑じり。夫婦愛なんて、恋からの、『同士』感覚?、からのもはやボランティア愛?笑。
    愛とは大雑把な括りで、恋愛もその中の一つなんだなと。でも恋人と愛人なんて、意味が違い過ぎる日本語。ペット溺愛が、子供溺愛より許される気がするのは、愛される側が、ジャージャーと浴びせられる愛に溺れないから?
    地球愛まで行っちゃうと、人類皆きょうだい…古っ、笑。もはや言葉遊びになっちゃうか。

    • みえみさん

      おはようございます。
      「愛」って言葉、気軽に使う人と、使わない人がいますよね。
      使わない人は、考えるからこそ、使ってないと思います。
      確かに、ペットは、どこまででも
      人間の愛らしきものを受けてくれる。
      でも・・・ね(笑)
      恋人と愛人。確かに、違いすぎる。
      日本語って、すごいなあ〜。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    1957年生まれの64歳(2017年に還暦を迎えた)。埼玉の片田舎で自由気ままに1人暮らしを謳歌している。 中年化した2人の息子はそれぞれ家庭を持ち、日本のどこかで生息中。 愛読書は鴨氏の書いた『方丈記』。 好きなミュージシャンは山下達郎氏と反田恭平氏。 3歩歩くとと、すべてを忘れる「とりっつん」に変身するという特技の持ち主。