遺品整理は、大仕事。懲りて、たどりついたのは、風通しのいい空間。

垣谷美雨さんの『姑の遺品整理は、迷惑です』という小説を読みました。

この小説の主人公50代半ばなので、わたしの立場は姑ではなくて、嫁の立場でこの小説を読みました。

最近「わたしは姑?嫁?」と、自分が狭間世代であることを痛感しています。

 

遺品はその人そのもの

あまりにあたり前のことだけど、遺品はその人そのものだ。

持ち主が死んだから「遺品」と言われるわけで、どれもこれも最初から「遺品」であるわけではない。

その人が生きていたその日まで、それらの物もそれぞれが意味を持って、一緒に生きていた。

その人にとっては全てが「意味のある物」なのだ。必要な物。

しかし、その人にとって意味のある物が、ほかの人にとって必ずしも「意味のある物」かと言えば、それは違う。

わたしなどは、夫の遺品整理に多くの時間と体力を使った結果、こんな格言にたどりついた。

夫の宝は、妻のゴミ

夫が存在しなくなっても、かなりの年月、夫が保管していた多くの物は、我が家に居座りづつけた。

「この家には居ない人の荷物のほうが多い」

そう言った次男の言葉に目が覚めて、大規模な断捨離に挑んだときには、夫が死んですでに10年が経っていた。

夫はわたしの元を去りたくなかったのか?(笑)

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2018年4月17日

結果、何年もかけてコツコツと片付けたが「分別」に手間取り、本当に大変だった。夫への懐かしさを通り越して、怒りがこみ上げてきて、先の格言にたどりついた。

夫が宝にしていたもので、わたしの生活に持ち込まれたのは、何ひとつなかった。

個人の物というのは、そういうものなのだということを、強く認識した。

わたしの物も、たぶん、ゴミ

だから、わたしは、できるだけ荷物を減らす努力をしている。

誰かが片付けなくてはいけないものなら、自分で片付けていくつもり。最後に残るものは、使っていた物だけにしたい。

 

物ではなく、生きざまが残される

不思議なことに、人は死んでみて、分かることがある。

「こういう人だったのね」ということが、はっきりする。なんで生きているときには、そこまで分からないんだろう。死んだ時点で、修正がきかなくなるので、当然か。

人は人に対して、何かしらの影響を与えながら生きている。その人が消えると影だけが残って、生きざまがくっきりと浮き彫りになるのだろうか。

人とたくさん関わってきた人は、なおさらだろう。

また、強く影響しあってきた者同士は、もっともっと強烈だ。

わたしの夫などは強烈すぎたため、わたしの中にこっそりと入り込んで、今やわたしの一部になっていたりする(笑)

残るのは、物ではなく、生きざま

それこそが、人が残していくモノだと思う。形ではない。

「遺品」という物を通して、姑の生きざまを見たというのが『姑の遺品整理は、迷惑です』という小説だ。そして、その極にある生き方のモデルに主人公の実母を置いて、2人の女性の生きざまを見せている小説だ。

 

見渡せば、わたし

今、わたしの周りに存在している物たちは、わたしの価値観で買い集められて、わたしの生活を支えている。

2階の2つの段ボールの中には、どうしても捨てられない、他人にとってはただのゴミも存在している。

いや。わたしだって、中になにが入っているのか、忘れるほどだ。滅多に開けたりしない。でも開けると捨てられないのだ。

思い出という名のゴミ

なんで、こんな些細な思い出と離れられないのか。よく考えると、ちょっと不思議ではある。あの頃の自分が捨てられないのだろうか。なにに対する未練なのだろうか。

ゴミを残すことも自分に許しつつ、でもルールもある。

思い出は2箱まで。5年〜10年に一度くらい入れ替えている。思い出を残しすぎると、夫のようになってしまうから。生きている分だけ増え続けるから。

部屋を見渡すと、家の中を見渡すと、これが今のわたしなんだなあと思う。

家や部屋のあり様は、その人の心の中と言われるけれど、それに異論はない。

だから、わたしの部屋の中には無駄も多い。どうでもいいものも存在している。それこそがわたしの心の中だろう。そこまで整理されてはいない。

 

風通しのいい空間

わたしの母は買い物が大好きで、いろいろなものを買い集めてきた。実家は物で溢れている。布団から食器から衣類まで。旅館でもやるのかというほどだ。

しかし、買い集めたのはいいけれど、生きているうちには使いきれないとわかってきたのだろう。母には焦りが出てきた。でも捨てるには惜しい。

ということで、10年ほど前にわたしに、いろいろ送りつけてきた。

「いいものばかりだから、大事にしてね」

「絶対に捨てるんじゃないよ」

それは価値観の押しつけ以外のなにものでもない。

一応「ありがとう」と受け取ったが、わたしにはいいものには見えず、場所ばかり食うものだった。それらは10年ほど我が家に存在していた。しかし、わたしには、全く不要な物だった。一度も使わなかった。

最近、思い切って、全部、処分させてもらった。

わたしには、場所のほうが大事だからだ。

風通しのいい空間こそが、わたしには宝

物の少ない空間が、一番安らげる。物に囚われない暮らし。これこそが理想。そういう頭の中になりたい。

風通しのいい空間を片付けるのには、時間はあまりかからないと思う。

 


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4 件のコメント

  • 夜分にごめんなさい。
    私も第2次断捨離位迄はやりましたが
    まだまだです。
    この先は物との攻防というよりは
    りっつんさんも仰っていますが未練と
    いうか愛着というか自分の心を見つめ
    直す作業になってしまいますね。
    中々にしんどい事ですが、やらなけれ
    ばいけない年齢になって来たのだなぁ
    と自分に発破をかけています。
    最後の最期に身辺も心もスッキリ出来て
    いたら人生上出来ですね。

    • キャサリンさん

      おはようございます。
      そうなんですよね。断捨離は自分との出会いなんですよね。
      心の整理がつかないと、物の処分は難しい。
      それにしても、30年かけてためた物の数はすごい!
      なにを思って暮らしてきたのかなあと、今さらながら思います。
      最後に全てスッキリできたら、まさに「いい人生!」と言えるはず。ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

      • 「何を思って~」同感同感!
        若かった自分の「夢のかけら」だらけ
        です。
        でも現在の自分に至る為に必要な夢
        だったのだと自分を納得させていますが
        金額に換算して呆然とする婆の自分も
        います。嗚呼。

        • キャサリンさん

          おはようございます。
          わたしもついつい金額換算してしまいます(笑)
          「ああ、この袋の中だけで10万円」とか。
          でも、お金って、紙の状態では、わたしを喜ばせてはくれないし。
          その時は喜びをくれたんでしょうかねえ。
          お金と物の割合が難しいなあ〜と思いますね。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    りっつん

    1957年生まれの60歳(2017年に還暦を迎えた)。埼玉の片田舎で自由気ままに1人暮らしを謳歌している。 中年化した2人の息子はそれぞれ家庭を持ち、日本のどこかで生息中。 愛読書は鴨氏の書いた『方丈記』。好きなミュージシャンは山下達郎。 時々、3歩あるくとすべてを忘れる「とりっつん」に変身してしまう。