これこそがホンマもんのオシドリ夫婦や!

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80歳になる叔父からの年賀状が届きました。

かなり不自由な手で書いた年賀状です。

 

老介護3年生

叔父はわたしの母の実の弟で、今年80歳になります。

叔父はリウマチで手が不自由。そんな手で書いた年賀状は胸に迫るものがあります。

体の不自由な叔父が、叔母を介護して3年になります。

叔父の年賀状

老介護3年生。山賊料理も満足料理に変わってきました。

オシドリになって飛べない八十路坂・・・川柳

まったくボケてないゾ、おじちゃん!

さんぞく→まんぞく。ユーモアはまだ現役ですね。

しかも叔父は昔山に登っていた山男。山賊だった過去も確かにあるのです。

わたしの結婚式では「長持ち唄」を歌ってくれました。声が良くて歌のうまい人でもあります。

 

我が家の3.11

叔父の話が、突然震災の話に飛んで、驚きますよね。

しかし叔父との話は、ここから始まるのです。

叔父と叔母は宮城県の北にある小さな町に住んでいます。震災の時の震度は6強という地域。

海は遠いけれど、叔父の家も被害は甚大でした。在宅してたらケガをしていたかもしれません。

ですがあの時、どんな運だったのか分かりませんが、叔父と叔母は自宅にはいなかった

震災翌日になって、仙台の従妹がわたしに電話をしてきました。

「叔父ちゃんと連絡が取れない!そちらからも電話かけてみて!」

従妹はみんなの安否を確認してるんだけど、叔父たちだけが安否不明ということで慌ててました。

そして、携帯電話の番号を知らされました。

日ごろから親戚づきあいの薄いわたしは、叔父とは20年も会っていなかったし、携帯の番号も知りませんでした。

人海戦術の一人として関東採用されたらしいので、とにかく、電話をかけてみた。

そしたら、1発でつながった!(@ ̄□ ̄@;)!!

さすが、魔女の力はハンパないです(笑)

なんと、叔父たちは成田に居たのです。

叔父たちはこっそりひっそり、イスタンブールに行っていたんです。

帰国前日にイスタンブールで震災の報を知る。

運良く何とか帰国はできたけれど、成田で身動きが取れなくなっていたのです。

たまたま叔父の携帯が、わたしと同じ携帯会社だったこと。そして関東からかけたこと。

どうも、これがつながった理由のようでしたが、本当のことはわかりません。あの日は何もかもがめちゃくちゃでしたからね。

後で叔母は「あの時の電話は、地獄で仏!」と言ってました。

わたしは仏ですよ。☆ほ・と・け☆(´◉◞౪◟◉)

わたしは、こう言うしかなかったです。

「うちに来て!」

そして「まずは上野に出て・・・」と我が家への道順を教えました。

それから、数時間後。

大きなトランクを引きずって、2人は到着しました。

それから約1か月間。叔父たちは我が家に滞在することになりました。滞在せざるを得ない状況でした。

たまたま我が家に次男の結婚式のために来ていた仙台の両親

近所のアパートに住んでいた長男夫婦と孫。そして犬1匹

そして叔父夫婦。

もともと住んでるわたしと猫1匹

4LDKの我が家が埼玉避難所に変身した瞬間でした。

何の縁か分かりませんが、これも神さまのおぼしめし。

あんな奇妙な共同生活は、したくてもできないと思います(笑)

 

叔父はたくさんの病気持ち

当時、叔父は17種類の薬を飲んでいました。

糖尿病でインスリンの注射は欠かせない。リウマチで左手はほとんど動かない。心筋梗塞で震災の数年前には死にかけたそうで。その他、病気のオンパレードさん。

ああいう人を病人というのでしょうが、本人はケロッとしているので、まわりも惑わされてしまいます。

叔母は成田でどうインスリンを手に入れようか、途方に暮れていたのでした。

そんな状態の叔父を、叔母は小さな体でトランクを押して、イスタンブールに連れて行ってたことに驚きました。

叔父は荷物なんて、まったく持てませんから。

我が家に来る途中では、叔母は階段などでは、若い人に助けてもらってトランクを運んできました。

あの時はエレベータもエスカレーターも使用不可でしたからね。

「関東の若い人は親切だわ~!」って嬉しそうにしてました。

叔母を尊敬しつつも、その無鉄砲さにあきれました。

うちの近所の病院で「震災の避難民」として、インスリンほか17種類の薬を処方してもらいました。

とにかく叔父も叔母も明るいんです。不思議なほど明るい。

しかも食事制限もしていない。

「病気に合わせると、食べる物がない。だからもう何でも食べてる」とのこと。

そんな叔父ですから、海外旅行なんて、もってのほか。反対されるに決まってる。だから、息子や娘たちにもナイショで海外遠征してたんです。

叔父は「いつ死んでもいい」と思ってるからと笑い、叔母は「行きたいって言うんだから、連れていくしかないでしょ」と笑ってました。

叔母は叔父より5歳年下。今年は75歳です。震災当時は70歳前。

本当に元気な人で、埼玉避難所では、台所は叔母にしきってもらいました。

叔母は嫁として大家族を仕切ってきた経緯から、大人数の食卓をこなすのが得意だったんです。

 

現在の2人

本当に元気な叔母でしたが、3年前に突然の脳梗塞の発作を起こし、倒れてしまいました。

本当に驚きました。何があるかわからないという言葉意外、見つかりません。

現在も右半身がまったく動かず、そして言葉も不自由な状態です。

そんな叔母を介護しているのが、薬を17種類飲んでいる叔父。

死にかけたこと3回の叔父が、介護しているんです。

これまた驚くしかありません。

広い自宅からコンパクトな家に引っ越して、2人だけで暮らしているのです。

コンパクトな家というのは、叔父が所有する借家。

「狭いほうがあったかいし、暮らしやすいぞ~ハハハ」って。

叔父たちは仙台に住む息子と娘にも迷惑をかけたくないようです。

叔父たちは金銭的にも困っているはずはないので、施設を選ぶことも可能なはず。

あえてこの暮らし方を選んでいるんですよ。

それはたぶん、叔父の叔母に対する愛なんじゃないかと、わたしは推察しています。

「愛?そったらこと、あるわけねえべ」と言う叔父の声が聞こえてきそうですが、たぶんそうです。

やれるところまでは、やりたいんだと思います。

2人の絆の太さは、埼玉避難所でしかと拝見しましたから。

本当にオシドリになったんだと、わたしは見ています。

おじちゃん、あっぱれだなあ。

春になったら、訪ねてみようかと思っています。

30年前の話

親戚付き合いの悪いわたしが、祖母の見舞いに行った時のこと。

この叔父は眠り続けている祖母に向かって、こう言った。

「ばんつぁん!一番孫が来たぞ」

「コイツが来ても、まだ危篤ではねえぞ!」

 

 


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りっつんブログが本になりました。

経験談や人情話から猫話。そして実用的な老後のお金の話まで。心を込めて綴りました。

「老後のお金」など、ブログではあまり触れていない話題にもかなり踏み込んで書いているので、お手にとって頂ければ幸いです。

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ABOUTこの記事をかいた人

1957年生まれの64歳(2017年に還暦を迎えた)。埼玉の片田舎で自由気ままに1人暮らしを謳歌している。 中年化した2人の息子はそれぞれ家庭を持ち、日本のどこかで生息中。 愛読書は鴨氏の書いた『方丈記』。 好きなミュージシャンは山下達郎氏と反田恭平氏。 3歩歩くとと、すべてを忘れる「とりっつん」に変身するという特技の持ち主。