なんで生きてるんだろう。
自分が生きている理由はあるのか。
誰しもそんなことを一度くらいは夢想したことがあるはずです。
立花隆さん
昨晩のNHKスペシャルは昨年の春に亡くなった立花隆さんの特集でした。
立花さんはジャーナリストであり、ノンフィクション作家です。
立花さんの本といえば、この2冊。
- 『宇宙からの帰還』1983年刊行
- 『臨死体験』1994年刊行
この2冊、強烈な印象をわたしの中に残しています。
宇宙とか、あの世とか、立花さんという人は、一体なにを考えているのだろう。
その答えが昨日の番組の中にありました。
立花さんが知りたかったのは“境界”だということ。
- 地球と宇宙
- 人間と猿
- 生と死
そのはざまに存在している自分は何者なのかということ。
俯瞰して見たら、いま、自分はどんな時の中にいて、どんな場所にいるのか。
なんだか、当たり前のように生きているけど、宇宙レベルで見たら、あまりに小さくて、ちっぽけすぎて、電子顕微鏡を使っても見えないくらいの人ひとり。
人生と呼ばれる道みたいなものを歩いているらしいけれど、その時間だって、宇宙レベルで見たら、一瞬も一瞬。測ることもできない短さ。
そんな人間という存在、いったいどこへ行くのか。
45分の番組は、そんな心の旅時間をもたらしてくれました。
時の流れの中で
宇宙時間でみたら、ほんの一瞬しか生きられない人間。点ほどもない時間。
その一瞬にどんな意味があるのか。
それを解くかぎが遺跡の中にあると立花さんは言っています。
遺跡の中にいると時の流れを感じられる。
時の流れの中に、自分が生きる意味を感じる?
たくさんの人々の力で作られた遺跡。時間を経過してもなお、そこに存在し続ける。
ひとりひとりの時間も力も限りあるものだけど、それが集まれば、なにがが生まれる。
1人の人間は連続体の1つであるということ。
遺跡は誰かひとりの力で作られたものではありません。神様が作ったものでもありません。名もなき者たちの力の結集。それが形となって地球という星に残されたもの。
進化するのは肉体だけでなく、思考も遺伝され進化していくということ。それが新しい地球を作っていくとすれば、1人ひとりが生存する意味は大いにあるということです。
ということで、自分の知を広げることは、地球のためになるってことらしい。
だれかの中に宿る
思考の遺伝。
宇宙規模で考えたことはなかったけれど、短いスパンで考えたことはあります。
夫の死。残された子どもたち。そして、わたしの心の中。
人は死んでも、だれかの中で生き続けているという実感が、わたしにはあります。
人は誰からの影響も受けることなく生きていくことはできない。
また、人は誰にも影響を与えないで生きていくことはできない。
良くも悪くも、何かしらのものを残していくものです。
そこには血のつながりは、あまり関係がありません。あるとすれば、たまたま近くで暮らしいるからという環境的影響です。
そもそも5代も遡ったら、先祖などどこのだれだかわかりゃしない。なので血縁ということに、あまりこだわりはありません。
限りある命が、限りある命に支えられて、いま、ここにある。これだけが真実です。
もしかすると、奈良時代の末期、飢えて死にそうだったわたしの祖先に水を1杯恵んでくれたおばあちゃんがいたかもしれない。それでなんとか命をつなぐことができて、結果してわたしがいる。
もしかすると、鎌倉時代の初期、戦いに巻き込まれて逃げ惑っていた祖先を、かくまってくれた若い村の女の人がいたかもしない。そしてそこで恋が芽生えて、結果として、わたしも恋することができた(笑)
とにかく、たくさんの奇跡の上に、いまここにいる人間が存在していることは疑いようもないのです。
そして思うのは、思考の遺伝。
夫との間に血のつながりはないけれど、夫の思考は受け取っているから。思考の遺伝こそが重要なんじゃないかと思うようになっているのです。
生きる意味?
最近、そんなもの、ないのかもしれないと思うようになりました。
ずーーーっとあれやこれやと、わが小さき頭の中で考えてきました。
先を歩いた人たちの本を読んでは、その範囲を少しずつ広げながら、考えてきました。(思えば、ここでも思考を遺伝されていますね)
そして、いま。
生きる意味だとか、こう生きたいだとか、生きるべきだとか、そんなものは、ひとりひとりにはないかもしれないけれど、人類全体としてはあるのかもしれないと思うようになりました。
そしたら、とても気が軽くなりました。
“この時”をどう過ごして、”この場”をどう去るのか。
確かなことは、この身体が、いま、ここにあるということだけ。
だから、この身体を使って、できることをやっていけばいいだけ。
そう思ったら、ほんとうに気が楽になりました。与えられた時間を丁寧に刻むだけ。
わたしが歩いた一瞬の中のさらに一瞬が、誰かの心の中に残されて、それが人類全体のカケラのカケラとして残されていく。
宇宙空間を思い浮かべたり、地球の姿を思うと、なんだか、生きることに、ロマンを感じます。
奈良に行きたい
それほど古い遺跡ではないけれど、わたしにとって時の流れを感じられる場所があります。
ああ、奈良に行きたいなあ。
奈良はわたしとって、時間を強く感じさせてくれる場所です。
遠い昔、奈良に連れて行ってくれたのは、夫でした。
高校時代に修学旅行で行ったことはありましたが、どこをどう巡ったかなど、まったく記憶にあらず(笑)
夫が秋篠寺が好きで学生時代から何度も足を運んでいたこともあり、新婚旅行先に選んだのでした(当時まだ秋篠宮家はありませんでした)
当時はサイパンとかそういう場所が主流だったのに、「え〜奈良?」と思ってましたが、行ってみたら、何か懐かしいのです。昔、住んでいたような、そんな気がするほどに。
そして、定年退職したら、一緒に寺巡りをする約束をしました。
1人になってしまったけれどと、奈良詣でを始めた翌年、それはたまたま夫が定年退職するはずだった年に、なんと、長男がアメリカから奈良に転居。
あのときの驚き。まったく予想しなかった展開に、夫の力を感じたものです(笑)
おかげで、奈良を身近に感じることができました。
そして毎年、この季節には、ひとつふたつの寺を巡っていました。
2年ほど中断してしまいましたが、いま、どうも、奈良から呼ばれているみたい(笑)
ブログ村の「ライフスタイルブログ」のランキングに参加中です。いつも応援クリックありがとうございます♪
私も奈良が大好きです。
若い頃、ふとしたご縁で、奈良に本社のある企業の東京支店に勤めていました。
社員さん達はみな奈良から転勤で来ていた方ばかりで、東京採用は私を含め新人の3人だけでしたが、とても良くしていただきました。
アットホームな職場で、社宅や独身寮にお邪魔したり、一緒に旅行したりして、楽しいOL生活でした。
研修で何度か奈良にも行き、時間の許す限り、あちこち散策もしていました。
退職してからも、その頃の同僚たちに会いに、奈良へ行くこともありました。
奈良の、一見地味だけど味わいのある神社仏閣、駅前から続くもちいどの商店街、開放的な奈良公園からの若草山の眺めなど
好きポイントをあげればキリがありません。
猿沢の池の亀までいとおしい(笑)
私も奈良は第二の故郷だと思っています。
まだ行けていないお寺や場所もあるので、コロナの機嫌をみながら、また奈良を訪れたいと思っています。
うりぼっちさん
おはようございます。
猿沢の池のカメ、目に浮かんできました(笑)
「京都・奈良」とまとめて言われることがよくありますが、
わたしにとっては、全然違うのです。
奈良時代が好きなのです。
奈良の大仏様には何度お会いしても、
「おっきい・・」とつぶやいてしまいます。
ああ、行きたい!
奈良が呼んでいる(笑)
りっつん様
だれかかの中に宿る、思考の遺伝
読んでいて100歳で亡くなった曾祖母の姿が思い出されました
当時、小学生だった私ですが今でも鮮明に思い出される彼女との日々は、やはり強い影響を受け 今でも私の中で生きているなぁと強く感じ、懐かしくも幸せな気持ちになれました。
ありがとうございます
また、人は誰にも影響を与えずには生きていけない
自分もそうなのかな?と思う反面、今年から開始したブログのコンセプトが「誰かの何かに」でした
私も誰かの何かに影響を与え、それが りっつん様のように良い影響になればと考え行動しています
日々、素敵なブログの更新 楽しみにしています
今後とも拝見したいと思いますので、お体にお気をつけて更新し続けてください
まべさん
おはようございます。
人、ひとり。
ちっぽけなようで、年を重ねるにつれて、
実はそうでもないかもと思うようになりました。
身体も思考も次々に受け継がれていくもの。
多分、ひとりで完結するものではないのです。
残すカケラの大きさが違うだけ。
どんな人も、何も残さないということもできないと思います。
なので、どうせ残すなら、いいものをバトンしたいなあと思うのです。
応援、ありがとうございますヾ(@⌒ー⌒@)ノ
こんばんは、僕も人間の「命」「死」については関心を持っております。また、齢50を過ぎて、体力の衰えと共に、残り時間が少なくなっているのを実感しており、これから何ができるのか?を真剣に考えています。りっつんさんも仰っている様に「人は人と影響しあって生きている」ということ、それは言葉を伴うことが他の動物と異なる独自性と考えており。結局人間が存在する(した)証明とはそこにあるのかなぁと。これからもこのような対話ができれば望外の幸せに思います。まとまりのない事を長々失礼しました。
五朗さん
おはようございます。
このテーマ、考える人は考えるし、
考えない人はまったく考えないのだそうです。
考える人は40歳くらいから考えるのだとか。
本当かどうかは分かりませんが、確かにわたしはそんなときから、
大真面目に考えるようになりました。
生きているということは、身体があるということ。
生きる意味は、いまある、この身体をどう動かすか、
それをどう使うかということでもあると思っています。
言葉で伝えあうことも、もちろん大事なのですが、
言葉では伝わりきれないこともあるように思うのです。
身体と思考。どう使うかですね。
初コメント失礼します。
日々生きる意味を考えていて
仕事のことや将来のことでもずっと悩んでいました。
仕事のことで体調を崩すことも多くなり、生きる意味を改めて考え…
これからの限られた時間をもっと自分を労って使おうと思いました。
この自分という個体を如何にして満たすことが出来るか…
これが今の自分の答えです。また変わると思いますが_(:3 」∠)_
話は変わりますが今回コメントさせていただいたのは
りっつんさんに伝えたいことがあったからです。
それは…もし、また奈良にいらっしゃることがあったら
『おいもわかいも』というお芋のお店がオススメということです(・ω・)
芋天塩ソフト、美味しいので良かったらぜひ食べてみてください。
乱文失礼致しました…。
氷飴さん
はじめまして。
コメント、ありがとうございます。
どうすれば、自分を心地良い場所に置いてあげられるのか。
そんなことを考えています。
これだ!という答えが出ては、また違う考えが登場して。
それでも考えていけば、何かは見つかるように思うのです。
そんなことを繰り返して、きっと終わっていくのかと思います。
「おいもわかいも」は橿原なんですね。
美味しそう!
芋好きとしては、ぜひ食してみたいです。ヾ(@⌒ー⌒@)ノ
Nスペ 見たくて録画しようとしていましたが、すっかりウッカリ忘れてました。
再放送は録画セットしました。
りっつんさんとご主人さまの思い出の奈良。なんかいいお話です。
こういう思い出があれば、未亡人もさみしくないですね。私にもあります。うふふのふ。
今となっては、自分のいいように解釈している思い出です。
まめぴよさん
いろんなことが、どこかで、繋がっているように思います。
何か、ちゃんと、導かれていくのかもしれません。
まめぴよさんのうふふな思い出、想像しときます(笑)
GWずーっと連勤でした。今日は、久しぶりの休みで立花さんの録画を観ました。からのまた思考の旅に出ております。立花さんの遺骨はゴミで捨ててほしい件、私も法的に許されるならかなり前から同じ考えでした。父や母の納骨の際に、骨壷ごと大理石の下に入れているのを見て考えはじめたのです。焼かれて骨になり骨壷に入ったままでは、大地に地球に還れないではないか?あの入れ物から出して、直接大地に還してほしいと。一緒にお墓に入るって?墓を守るって?などなど。夫が亡くなった時には、それらを理想に近づけた葬り方もでてきたので、樹木葬にしました。私の中には、やはり夫の思考が、受け継がれています。子ども達にはさらに血が受け継がれています。それがその人の生きてきた証。物質的には、ゼロになる。気持ちが楽になりました。医療従事者としては、口にしにくいですが、死ぬために生きているって思えば死も怖くないような気がします。
まめぴよさん
こんばんは♪
わたしも土に還りたいと、強く思っています。
しかし、このままだと、石の下。
今後については、息子たちと話し合っておこうと思っています。
肉体は滅びるしかないけれど、魂というのか、思考というのか、
それは伝えられていくのだと。
それが腑に落ちたら、淡々とした毎日も、意味があるような気がしてきます。
死ぬために生きてると納得できたら、怖いものはなくなりますね。
ご長男氏奈良赴任の件、フワーっと視界が開けるような思いがしました。何かの采配を感じます。そこにはきっとご夫君の想いが関わっていたに違いないと思いました。
立花隆、録画し忘れました〜(><;)再放送を録ります!
姐さんはそういうふうに生と向き合われたんですね。
生きる意味を切実に追求する感覚は私にはなかったです。何かしら意味があるから生きてるんだろう、と流せる感じ。講義や文章でもその時点わからなくても流して先を聴き読む、するとその内にわかってくる、あの感じです。
ただ、それが現世的成功とイコールではなさそうなのはなんとなくわかっていました。
と同時になぜか自分自身の存在の無意味さ軽さ、惨めさの感覚がいつもつきまとっていました。今ではずいぶん抜けましたが。
私は絵を見ます。
ラスコーの洞窟画のような大昔から人はイメージを描くことをしてきて、その技術を継承し洗練させ発展させてきました。その跡を辿るときもしかすると立花氏が遺跡に見るようなものが見えているのではないかと思います。
ゴリラ学者さんによると、初の『思いやり』の発現はゴリラがよその子に食べ物を分け与える行為なんですって。それが引き継がれ引き継がれ、人類にまで伝わり、より洗練複雑化していく。すごい!
このように様々のこと(善いも悪いも)がデータベースのように蓄積され、人はアクセスして自分の生において活かすことができる。
きっと建設のような事業だったり、絵画だったり、人の何かの行為だったりはアクセスのキーとなるのでしょうかね。
そのデータベースって、ユングの言う集合無意識なのかな〜なんて思ったりします。そうすると脳の使われていない95%を思い出したりして…『思考の遺伝』領域?。
それでも「データベースにいいもの残さなくちゃ」では本末転倒で、自分の人生を正直に生きる中で残せたものが何かしら貢献している、というものなんじゃないかと。いや、どっちでもいいのか。
つい触発されて長々と…失礼しました〜。
デイジーさん
こんばんは
夫というか、何かそれ以上のものを感じます。
奈良では、いろいろと不思議なこともあったりしたのです。
もしかして、わたし・・・昔、ヒミコ?(笑)
夫を亡くして、生きるってなんだろうって、
なんで夫が死んで、わたしが生きてるんだろうって、
結構、大真面目に考えたんですよ。
でも、いつしか考え疲れて・・・。
それでも、そう考えてしまう癖がついてしまってるみたいで。
いや〜面白い話をありがとう!
また考えるきっかけになりましたヾ(@⌒ー⌒@)ノ
生きている意味。誰もがきっと人生1回は考える、そして答えのない問いのような気がしていました。
しかし、人類の進化は「肉体」だけではなく「思考」も受け継がれる、ということに、大変感銘を受けました。
地球という大きな生命体の中で、命をつなぐということが、決して自分の子孫を残すということだけに当てはまらないとういうことに。
まさに答えはこれではないでしょうか。
思考の遺伝
誰もが、誰かに影響を与え続けながら、つながっていく未来。
ほんの小さな小さな個人の繋ぎ合わせでつながっていく未来。
つまりは、一人一人が未来をつなぐ役割を担っているということ。
自分もまだまだ歩き続ける意味がある、まだまだ知を広げたい、そんな気になりました。
ありがとうございました。
みなすぬさん
こんばんは♪
コメント、ありがとうございます。
思考だけでなく、何か得体のしれないものも伝わっていくような気がします。
得体の取れないもの→信念とか強い思いとか?
たぶん、みんな、どこかで繋がっているのでしょう。
竹林の竹が地下茎で繋がっているように。
なんで生きているのかについては、やっぱりよくわからないけど、
なんだか意味はありそうだと思えるようになりました。
自分が学ぶことが、ほかの誰かにも伝わるなんて、
とってもステキなことだと思います。
たまにはこんなことを考えるのも、悪くないですよねヾ(@⌒ー⌒@)ノ