春分の日。
春分の日と秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。
西方に沈む太陽を礼拝し、極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりと言われています。
上の写真は大阪と奈良の境にある二上山。
二上山のこと
二上山は「ふたかみやま」もしくは「にじょうざん」と呼ばれています。
二上山は、517メートルの雄岳(おだけ)と474メートルの雌岳(めだけ)という2つの山から成ります。
1年に2回。春分の日と秋分の日には、雌岳と雄岳の2つの山の真ん中に日が沈んでいきます。
五木寛之さんの『風の王国』という小説の舞台は二上山。
『風の王国』を読んで以降、ぜひ山の真ん中に日が沈むのを見てみたいと思っていました。『風の王国』は現代小説です。
運良く、チャンスが巡ってきたのは、2015年の9月23日。秋分の日でした。息子に連れられ、二上山の日の入りを見ることができました。感動しました。
山のふもとは「二上山ふるさと公園」葛城市が管理する大きな公園。入場は無料です。手前の道の駅でお昼ご飯などを調達して公園に向かいました。
公園の手前にある道の駅のHPです→http://www.futakami-park.jp/index.html
休日というのに、大きな公園に人はまばら。
ゆっちゃんと、ともたんは思いきり走り回ってきました。
実はこの日、カメラ(の充電)を忘れてしまったため、息子がiphoneで撮った、この写真しかありません。
この公園には中腹に向かって456段の石の階段があるのですが、途中からは手すりもなくけっこう急で危険な階段。
幼な子を2人連れては、とてもたどり着けませんでした。
何かに拒まれた気がします。
近いうちに、中腹までの階段をぜひ登り切ってみたいと思っています。体力のあるうちに。
二上山と万葉集
この山は万葉集に登場します。
天智、天武、持統朝時代は、親族が入り乱れて政権の奪い合いに明け暮れた時代。
政権を握れなかった者は何らかの罪を擦り付けられ、闇に葬られるということが、ごく普通に行われていたようです。兄弟は争いの種。
天智天皇が兄。天武天皇はその弟。
持統天皇は天智天皇の娘で、天武天皇の妻です。
ん?ん?ややっこしいですね。(@_@)
この時代を楽しみながら、身近に感じさせてくれた小説があります。
史実を元に作者が想像をこめて作り上げたフィクションです。
文章が平易で大変読みやすく、また皇族たちが大変人間くさく描かれていて面白かったです。時間のある方はぜひ!
『天翔る白日ー小説 大津皇子』黒岩重吾
ただし、人間関係があまりに複雑なので、誰が誰の子なのか、誰が誰の妻になったのか、混乱することは間違いなしです(笑)
天智天皇の崩御後に政権を奪った天武天皇。これが壬申の乱です。
そして天武天皇の後の王位継承をめぐって、不運な運命をたどったのが、663年生まれの大津皇子。
大津皇子の母親は天智天皇の娘でした。つまり、天武天皇は姪っ子を妻にしていたわけです。
さて、もう一人の登場する皇子は662年生まれの草壁皇子。
この皇子の母親は後の持統天皇です。実は持統天皇と大津皇子の母親は姉妹です。つまり、天武天皇は2人の姪っ子を妻にしていたのです。
ほら、もうかなりややっこしい。┐(´~`)┌
この2人の皇子たちは比較され続けます。
で、軍配は大津皇子に。何につけても優れていたようです。大津皇子は学問を好み博識。恵まれた体格を持ち、武芸にも秀でている。
性格もよく、礼儀正しく謙虚。そのため多くの人望を集めることになったらしいです。
イケメン、スポーツマン、強い男。しかも偏差値も高いのに、性格は穏やか。
これなら、今だって多くの人望を集めるに違いありせん。わたしだって好き。本当に、そんな完璧な人がいるのかどうかは疑問ですけど。
あくまでも、らしいということです。本当のところは、誰にもわかりません。
これだけ完璧なら間違いなく後継者ということには・・ならない。後の持統天皇が我が子である草壁皇子を後継者に望んでいたからです。
何につけても草壁皇子より、すぐれていた大津皇子でしたが、ただ一つ足りないものがあった。それは母親の後ろ盾。大津皇子の母親は早くに亡くなっていたのです。
ワナにかけられた大津皇子は謀反の罪を着せられて、24歳で自害に追い込まれました。結果として草壁皇子の母が皇位を継承して持統天皇となりました。
しかし母の願いもむなしく、草壁皇子は病弱ゆえに28歳で没し、皇位に着くことはありませんでした。
二上山には大津皇子の墓がある
実はこの二上山には大津皇子が葬られた形跡があるのです。大津皇子のものと伝えられているお墓があるのです。
大津皇子の死を悼んで姉の大伯皇女が詠んだ歌が根拠と言われています。
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と わが見む
久しぶりに『万葉集』を開いてみました。163番~166番の4首が大津皇子を悼んで歌われた歌です。姉の大伯皇女。
そのすぐ後の167番からは草壁皇子の死を悼む歌が、ずらっと続いています。
167番歌は柿本人麻呂の長歌です。人麻呂は宮廷歌人。プロの詠み手です。草壁皇子と大津皇子の扱いの違いがはっきりと出ています。
大津皇子には美しいロマンスもあったようで、興味は尽きません。
お墓は山を1時間半ほど登った所にあるようです。トレッキングシューズでないと危険だということでした。
登ってみたい気もしますが、身のほどを知っているので、登る機会があるのかどうかは?です。
五木寛之さんは『百寺巡礼 奈良 』の「當麻寺」 の章でこう語っています。當麻寺とは、二上山のふもとにある寺です。
二上山は奈良盆地のどこから見ても西に見える。大和の人々は大和と河内の境に位置するこの山のこちら側を現世、西の向こう側を浄土と考えていた。いわば二上山は生の世界と死の世界を分ける結界だったのだ。
春分の日。あの山の真ん中に日が沈んでいきます。
あの世というものが存在してほしいと切に願う、2017年の春彼岸です。
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