暑い、暑いと言いたくはないけど、暑いですわ~。(^_^;)
毎日、汗、かいてます。
雨戸を上手に利用して(と本人は思っている)、強い日差しを家の中に入れないようにしながら、暮らしております。
夏の日差しは避けるに限る!
ゆかた→ワンピース
昔、言いましたね。アッパッパとか何とか。ざっくり着る部屋着みたいなもののことを。
それです!
ゆかたをほどいて、縫い合わせてもらいました。直線裁ちです。そして着やすいように、ジッパーを付けてもらいました。
ほどいた人→りっつん。
縫った人→あややんさん。
ダボダボですが、それゆえ解放感があり、ものすごく涼しくて重宝しています。
ふろ上がりにはこれ!
汗を冷まして、寝る前にパジャマに着替えます。玄関くらいには、出られます。
祖母のゆかた
これは、わたしの母方の祖母のゆかた。
祖母は今から30年くらい前に83歳で他界しています。
このゆかたは、母がわたしの和服箱の中に入れておいてくれたもの。形見ということのようです。
しかし、祖母がこのゆかたを着ている姿は、見たことはありません。
自分の着物さえも着ないのに、まして、祖母の地味なゆかたを着る機会などあるわけがなく、30年が過ぎてしまいました。
数年前に、着物も思いきって整理を始めました。
譲れるものは譲り、残りは、ほどくことにしました。
ほどいて反物に戻して、何かに利用したほうがいいです。いくつか再利用を待っている反物がります。
さて、この祖母のゆかたは昔の綿。とても手触りがいいです。
最初は何かのカバーにでもしようと思ったのですが、あややんさんの提案で「風呂上がり着」に変身させることになりました。
10年前なら、着ようとは思わなかったはず。60歳をまじかにすると、こんな柄も受け入れらるようになるもの。
そして、当然と言えば当然ですが、着ると思い出すのです、祖母のことを。
亡くなって30年。
祖母にはたいへん世話になりました。
祖母のこと
祖母はわたしの母の母。
宮城県のササニシキの産地である田舎町に暮らしていました。今はかなり便利になりましたが、今から50年前は、本当に田舎でした。
田んぼと畑以外、何もなかった。
祖母は49歳の時に、祖父を自動車事故で亡くして未亡人となりました。当時わたしは1歳になったばかり。祖父は孫というものを、わたししか知りません。
母には年の離れた弟が3人いて、一番下の弟(私にとっては叔父)は12歳でした。
そんな息子たちを女手ひとつで育て上げた祖母。苦労したんだろうなあ~と、未亡人の身の上に今なら思いをはせられます。
わたしは子どものころ(4~7歳くらい)、祖母の家にたびたび預けられていました。祖母も寂しかったのかもしれません 。母もわたしから解放されるので、ちょうどよかったのでしょう。
ですから子どもの頃の思い出は、仙台の町の中のことより、その田舎町でのことのほうが鮮明で鮮烈です。
わたしは田舎育ちと言ってもいいほど、田舎での暮らしには詳しいです。
当時のわたしの特技はザリガニ釣り。
夏の終わり、垂れた稲穂が風に揺れるころには、田んぼのど真ん中で、一斗缶をたたいてスズメを追い払ったりしていました。
あの風景がわたしの原風景。
どんな環境でも、わりとすんなり受け入れられるのは、あの田舎暮らしのおかげなんじゃないかとも思っています。
祖母の思い
祖母が亡くなるころ、わたしは夫の病と直面していました。
そのことを知った祖母は、入院していたベッドの上からは母に向かって言ったそうです。何を決意したような力強い口調だったそうです。
「わたしが死んだら、あの子を守るから」
その時に祖母は夫を病から救ってくれるんだと思いました。
だから、夫が亡くなった時には、「やっぱり、守るなんてできないんだよ」と思っていました。
でも、違います。
祖母はどんなことがあっても、わたしが生きていけるように守っているのです。
祖母のゆかたを着ながら、そんなことを考えている自分。わたしも歳を取ったんだなあと思います。
祖母は自分の死に装束まで自分で縫って箪笥に入れていたほど、準備のいい人でした。
死んだ後の始末も時間がかからないように整理してありました。
それから、最後まで髪をきちんと染めているようなおしゃれな人でした。
わたしは母より祖母に似ているようです。
祖母の葬式の時3人の叔父がくるっと後ろを向き、
こう言いました。
「誰の髪が一番薄い?」
正直も何も・・・みんなそっくりな薄毛具合。
叔父たちが久しぶりに集合して、本気でもめてたのは髪の毛の薄さ!
そんな3人の叔父たちも、みんな母親の元に逝ってしまいました
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