小池真理子さんが、昨年朝日新聞の「be」に連載していたエッセイが単行本になるという。
それを前にして、上野千寿子さんが書いた書評を目にした。
好書好日より
上野千鶴子が読む「月夜の森の梟」 わたしにはわからない、と思っていたが
1年にわたる小池さんの連載エッセイ「月夜の森の梟」
テーマは配偶者ロス。
夫である藤田さんを喪っての日々を綴ったものだ。
当時、おひとりさまの上野さんは、その気持ちが理解できなかったという。
配偶者を喪うということは、そういうものか・・・と。
しかし、それを理解する日がきたと言うのだ。
きっと上野さんにもそんな日が来るような気がしていた。エッセー「ひとりの午後に」は「おひとりさまの老後」とは違う上野さんが見え隠れしている。
配偶者という言葉でくくるべきではないよね。
配偶者でなくても、大事な人はいるから。
配偶者だろうと、そういうくくりではない人だろうと、かけがえのない人は存在する。
“パートナー”
“わたし”を深く知っている人
その人を喪うということは”わたし”の一部も消えてしまうことのような気がしてならない。
だから”わたし”を深く知る人には、たとえふれあいがなくなったとしても、長くこの世にとどまっていてほしい。
そんなわがままな願いを持っている。
猫1匹を喪って知ったことがある。
まさか、こんなに悲しいとは思ってもいなかった。
猫に対して、こんな感情を抱くとは思ってもいなかった。
予想というのは、それまでの経験が導き出すものだから、それを超えていくというのは、自分の枠を飛び出していくということでもある。
また少し、その範囲が広がったようだ。
それは身を切られるような思いを体験しなければ、到底わかるものではないし、言葉で表現できうるものでもないし、共感できるものでもないと思っている。
それぞれに抱く思いなんて、どう説明したって、説明しきれるものではない。
だから、ひとくくりに未亡人と言っても、喪失感はかなり違う。こんなにも違うのかと思うこともある。
予想外の悲しさを知るということは、おまけのように、この世の大きさを教えてくれた。
あまりにちっぽけな自分。
大きな仕組みの中で、動かされているだけの自分。
大きな力の前には、アリンコほどの存在でしかない。
それを絶望と言うのかもしれないけれど。
たぶん、野原で孫と戯れる息子を、少し離れて見ている初老の女の心の中が、キリキリと痛んでいるなんて、だれも想像しないだろう。
あんなことも、こんなことも、もっと味わって欲しかった。
一体、何が、そう思わせるのだろう。どういう種類の気持ちなんだろう。だけどそう思うのだから、仕方ない。
自分だけがこの幸せ感を味わっていることへの罪悪感なのかもしれない。
あの人の分まで、奪ってしまったのかもしれない。
わたしだけが、こんなに幸せで、いいの?
もう、姿も思い出せない。
もう、声も思い出せない。
そんな人に問いかけている。
これって、愛なんだろうか。
結婚したころ、どう想像しても、イメージできなかった、老いた夫の姿。
早く逝ってしまうことが、わたしにはわかっていたのかもしれない。
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りっつんさん!おはようございます。長い小説を読むのは年々苦手になってきましたが
りっつんさんのこうした思いを語る言葉は、すうっと心に入ってきて一つの物語を読み終えた感覚になります。表紙を閉じて、ふうっと息をはく感覚といいますか・・皆がその思いに自分を重ね合わせているんだろうなと思います。
しおさん
こんにちは
自分が吐き出した思いを受け止めてくださる人がいる。
だから、わたしはひとりじゃないと思える気がします。
本当にありがとう・・・。