38歳でわたしたちの前から姿を消した夫ではありますが、わたしや息子たちに与えた影響は多大です。
ゆっちゃん、テストでズルをする
小学1年生のゆっちゃん。テストの答えをお友達に教えてもらったというのです。
テストというものの意味がよく分かっていなかったのでしょうか。パパである息子が問いただし、告白したということですから、良くないということはわかっていたのでしょうね、きっと。
100点へのこだわりもあったでしょう。わたしだって100点は好き。うれしいですもん。
息子は「ズルして100点を取るくらいなら、堂々と0点をとってこい!」と叱ったらしい。翌日、ゆっちゃんは先生に事の次第を告げて謝ってきたそうです。
些細といえば些細な事件。だけど息子は見逃さなかった。そして父親としての考え方を強く伝えたようです。
息子は「父親から教えられたことだから」と言います。
もしかすると人生で1番か2番に大切なことかもしれない「ズルはするな。正直に生きろ!」というメッセージ。10歳で父親と死に別れた息子ですが、きちんと伝わっています。
夫から教えられたこと
人は必ず死ぬ。どんなことをしても、死ぬ時がくれば、死ぬ。
夫からは、ろくでもないことを含め、いろんなことを教えてもらいました。しかし、夫がわたしに教えた最大なことは、これ。自分の体を張って教えてくれました。
それまで遠い存在だった「死」を突きつけられました。人には終わりがある。わたしは身に染みています。
夫が死んでしばらくは、ただただ悲嘆にくれていました。しかし、10年以上は過ぎていたでしょうか。いつの頃からかは定かではありませんが、日常生活の中で、夫のことをあまり思い出さなくなりました。
こうして時の流れとともに、死んだ人は忘れ去られていくのだ、切ないなあと思いました。
しかし、最近、ふっと気づいたのです。
夫はわたしの中で生きていると。
こういう表見、本当はあんまり好きではないです。だけど、ほかに表現方法が見つからないので、あえて使います。生きているというのともちょっと違うのですが。
夫は、もうすでに男とか女とか、そんなふうな生物的存在ではないのです。わたしの一部になっているようなのです。知らぬ間に、夫はジワジワとわたしの中(頭?心?)に住み着いていたことに気づいたのです。
いまだに夫を愛してやまないとか、そういうことではありません。今、ものすごく会いたいとも思いません。
同化しているのです。どうかしているのではありません(笑)
夫が生きてきた姿勢。それがわたしの中に取り込まれているようなのです。夫の人生を、わたしが担って生き続けさせられているような。
以前は「夫ならこうしたかな」と思っていましたが、今は行動した後で、「まるで夫のようだ」と思うのです。
夫が親たちから連綿と伝えられてきた生き様をベースに構築した38年間の歴史。それが死後20年をかけて、どういう道筋かは不明ですが、血のつながらないわたしにも伝わってしまったようなのです。
どうやって伝わったかを具体的に解明できたら、もしかすると、ノーベル賞ものかもしれませんね。
さらに息子たちは血がつながっているので、もっとダイレクトに何かが伝わった可能性があります。次の世代へと引き継がれて、何かが残されていくことが、今のわたしには確信できます。感情のDNA(?)が存在するように思います。
わたしは突然現れたわけじゃない。わたしは過去からの堆積物を持った生き物なのだと思うのです。
とすれば、わたしが子孫に残せるものは、「生きざま」しかないのでしょう。せっせとわたしらしく生きる姿を見せるしかないです。わたしらしさ。少なくとも生きやすくなるような生き方をバトンしたい。
だからこそ、わたしは気を付けていることがあります。わたしが親からバトンされた生きざまの中で、不要だと思えたものをバトンしない、ということです。
整理整頓して、大事なことだけを伝えたい。要らぬものは捨て去り、わたしの代で終わりにする。これがわたしにできる唯一のことだと思っています。
長男5歳。次男3歳半。かわいい2人。
コンビニの前で、夫は2人にささやいた。小声でヒソヒソ。
「これから、この店に強盗に入る」
「やめて!おとうさん!」
2人は号泣した。次男の泣き声は遠くから見ていたわたしにも聞こえるほど。
夫はしたり顔で「ビックリさせるのに成功した」と。
お茶目な夫。しかし息子たちは相当な恐怖を感じたようでした。
あんなに怖いことはなかったと、いまだに我が家では語り草。
※キャッチ画像は我が家の百日紅(さるすべり)です。今が盛りです。
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