唐招提寺にて「今、わたしがここにある」ことを確認。

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先週、唐招提寺を詣でました。

あの日の朝、心に重くのしかかるものを抱えていました。わたしの力ではどうしようもないこと。

そんなモヤモヤを抱えていたら「唐招提寺に行け」という声がどこからともなく聞こえてきたのです。

 

鑑真和上の御廟まで

命を賭して日本に渡った鑑真和上。故郷の土を踏むことなく、日本にてこの世を去られ、ここに眠っておられます。

必ず立ち寄らせていただく御廟(墓所)は、敷地の一番奥にあります。

この右の竹垣の奥が御廟です。

ここが御廟の入り口。この道の正面に鑑真和上の御廟があります。

木漏れ日の下で苔が光っています。手入れの行き届いた木々たち。静かです。時々、葉擦れの音と鳥の声が聞こえてきます。

ん?

神妙な面持ちで歩いていたら、とんでもない方々を発見!

御廟の前にて、生殖活動に励むコガネムシさんたち。金色に光っているのは、ここが唐招提寺だからかしら(笑)

しばし見てしまいました。

虫の行動をじっと見たりするのが、本当に好きなんです。

「何してるの~?」って聞いてみましたが、活動に夢中のご様子で、返事はありませんでした。

これが生きているものたちの真の姿ってだけですね。

御廟の手前には手水。ここで手を清めて、お参りします。

 

鑑真和上との語らい

寺社仏閣で心をこめて手を合わせますが、願い事はしません。というか、願い事など浮かんできません。

今ここに存在していることの確認をしているだけ。

悠久の時を経て、わたしがここに存在する意味を感じたい

そしてこれからも流れに身を任せていくことを確認してくるだけ。

金堂などのお参りはしても、ここまで来られる人は少ないようです。

鑑真和上は688年に生まれ763年に亡くなっています。今から1250年も前の人。

そんな鑑真和上との対話なんて言ったら、あまりにも分不相応でしょうか。

しかし、今なお、わたしにも語りかけてくださるのは、事実なのです。

横の木の株に腰かけて、30分ほど。しばし頭の中の宇宙に行くことにしました。

ここに座っていたら、心の中がスーッと静まる感じがしました。

今、こうして、思い出してみても、ふと涙が出てくるような感動がありました。

和上はわたしに、こうおっしゃったような気がしました。

「何もかも、ひとつだよ」

みんながここに存在する気がしました。

亡くなった夫も父も祖父も祖母も・・・みんな。とても温かい気持ちになりました。

鑑真和上は地球と一体化している。

そして和上だけではなくて、みんなが、地球と一体となり、確かに存在しているのです。それは間違いない。

そして、わたしもいずれは地球に溶け込むことになる。

その日が近いのか遠いのか、わからないだけけれど、その日は確実にやってくる。

一本道なのです。

 

「今」の姿

名を残した人もそうでない人も、みんな同じ。

御廟の前で生殖活動に励んでいたコガネムシも。

「今、ここにある姿」が違うということだけ。

わたしには肉体という衣があり、死者には肉体という衣がないというだけ。それがどれほどの違いなのでしょうか。

肉体が消えたことだけを悲しむという世間の風潮に反発を覚えるわたしは、少し変でしょうか。

夫が38歳でなくなった時に、世間のみなさんから、とても憐れまれました。憐れまれたことが、一番つらかった。

人生は長さではない。

夫は生き切ったのだと、信じたかったのですが、世間の人たちからは「早すぎる。残念だ。あまりにかわいそうだ。」と。

かわいそう?

その言葉の裏に、そう言っている人の生きていることの優越を見てしまったのだと思います。

そう言われるたびに、心の中でいつも言い返していました。

「やれるなら、夫ぐらいのことを、やってみろ!長く生きるってだけで、あなたがどれだけできるのか見ててやるわ」と。

以後、人を憐れむという上から目線。大嫌いです。

夫は死んでもなお、わたしたちを支え続けています。姿がないだけなのです。

 

「今」を感じる

結果的に、人のために何かをしたことになったとしても、それは人のためではなく、自分のためなのです。

それが自分の命を活かしきるということだと思うから。自分が動きたいから動くだけです。

たとえば、今、わたしが息子たちや孫を応援するのは、わたしにその力が残されているからです。

それが、今わたしに与えられている命を使いきるということだと思うからです。

ただそれだけです。将来の介護などを望んでいるわけではありません(笑)

 

結論の出ないことなど、考えない

命に関する領域は、わたしたちが考えるべき領域ではないと思うのです。

神さまや仏さまの領域です。

なので、わたしはお任せすることにしています。

実は自分の力でどうにかできることなど、少ないのではないでしょうか。

自分の力ではどうしようもないような強風が吹き荒れてきたら、頭を低くしてじっとしていればいい。

そのうちに風は収まります。必ず。

吹き続けられる風も、また、ありえないのです。

そして考えて結論の出ることだけ考える。

たとえば、今晩の献立とか。頭はそういうことにだけ使う。

献立だって、いかに安く栄養のある物を食べようかと思ったら、相当の知恵が必要です。

 

「今」を生き切ること

これが今回の結論かもしれません。

できることは、それに尽きるように思えてなりません。

そう思いはじめると、今が、この一瞬がとても愛おしいです。

どんな状況下にあろうとも、今を生きるしかない。

れなら、少しでも楽しんで過ごしたらいいのです。とにかく「今」に集中すること。

「今」できること。「今」すべきこと。

状況は必ず変化するし、とどまることはないのです。

確かなのは「今」だけ。

そしてある瞬間には、誰でもが姿を消していくのが定めなのです。

姿は消えても存在はけっして消えはしません。そして今の姿で、今できることをやればいいのです。

今、わたしの心は凪いでいます。


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4 件のコメント

    • リンダさん。コメント、ありがとうございます。
      そうなふうに言っていただけると、本当にうれしいです。
      たぶん、みんなつながっているんですよね。
      リンダさんとわたしも。

  • りっつん さま
    いつも楽しみに拝見してます。今日のブログは「目から鱗」はたまた
    背中を思い切りどつかれた気分です。
    亡き父から「人の不幸の上に自分の幸せを語るな」と聞かされた事があります。娘の口から言うのも何ですが、誰にでも優しく、それでいて一本筋の通った父でした。
    ブログを通して父を思い出し、背筋を伸ばした今朝です。
    時節柄お身体ご自愛下さいませ。

    • 京子さま。コメントありがとうございます。
      お父様の言葉、わたしも受け取らせていただきました。
      本当にそう思います。これからもそうして生きていきたいと思います。
      コメントを読ませていただいて、胸が熱くなりました。ありがとう!

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    ABOUTこの記事をかいた人

    1957年生まれの64歳(2017年に還暦を迎えた)。埼玉の片田舎で自由気ままに1人暮らしを謳歌している。 中年化した2人の息子はそれぞれ家庭を持ち、日本のどこかで生息中。 愛読書は鴨氏の書いた『方丈記』。 好きなミュージシャンは山下達郎氏と反田恭平氏。 3歩歩くとと、すべてを忘れる「とりっつん」に変身するという特技の持ち主。