久しぶりに、夫が残してくれた動画を見る機会がありました。
それを見ながら、ふと思いました。
自分にとって、結婚って何だったんだろうなあ。
いまとなっては、遠い過去になってしまったけれど。
妻であったころ
夫が残してくれたVHSテープは、数年前にビデオテープをDVD化しました。
アルバム整理と同時に作業をしました。ものすごく時間がかかったのでけど、これも還暦前にやっといて、本当によかった。
30本ほどのビデオはコンパクトになりました。
DVD化したので、VHSのビデオ再生機も不必要になり、機械は納戸の中で長期滞在中。
見たい人だけが、PCで見ればよし。大人数での観賞会なんて、開催予定はなし。
さて、レトロな動画に映されていたわたしは、紛れもなく、妻であり母の顔をしている。
こんな時代もあったのねえ。いろいろあったねえ。
夫婦という形から身を引いて25年以上。
結婚って、夫婦って、なんなんだろう。
そんなことを時々考えることがあります。自分がどうのこうのというよりは、システムとしての結婚に興味があるのです。
夫婦の形は家族の形を作る。
夫婦の形は時代のありかたに大きく影響され翻弄されるもの。家族の形も、時代や、地域によって、大きく違います。
血縁を作る
結婚とは、なかなかすごいシステムです。
繋がりのなかったところに、血縁という新しい縁を作っていくのですから。
そして、なぜか、子どもを持った途端に、血縁にこだわり始める。
血縁なんて、あっという間に薄くなるのに。
他人から始まる血縁。そして兄弟は他人の始まりになる。三代も進めば、ほとんど他人。
人との距離の取り方は、本能的なものではなく、どこかで学んだというか、どこからともなく身についていくもの。
どういう育てられ方をしたのか。どういう母親、父親に育てられたのか。
価値観の違う人に育てられた人が、新たな血縁を作る。
我が家の常識は他家の非常識
多かれ少なかれ、夢に描いていた世界とは違う世界が展開されることになる。
いまになって考えてみると、夫の何をどれだけ知っていたのかなあと思います。
今、一応夫は”いい人”に認定されているけれど、それは時間の経過とともに、都合の悪いことが濾過されたからってだけ。
動画を見ていると、明かに不満そうなわたしも見え隠れしている(笑)
生きていたら、この年齢まで暮らしを共にしていたかどうか、実はちょっと自信はありません。
関白亭主は死語?
結婚したころには「関白亭主」なんて言葉も残っていました。
夫は社会で働く。妻は家を守る。それで家庭はうまく回っていました。
当時は残業なんてあったりまえだの青天井(100時間なんてことも!)
夫の残業代が基本給と同じくらいということもよくあって。夫は2人分働いてくれました。
だから、わたしは2人の子どもの出産も1人でこなしたけれど、当然のことと納得していました。
わたしにとっての結婚は、生活互助会みたいなものだったのです。
自分が生きて暮らしていくためのもの。それがたまたま好きな人と営めるという選択ができたというだけのこと。
冷静になって考えると、そんな結論に至る。
あれから30年。時代は変わりました。
いまなら、2度の出産時に仕事をしていた夫は、非道の父親として認定されそうです。
「わたしたちのときには・・・」なんてことは、たぶん、ほとんど通用しません。
平安時代の夫婦像を持ち出しても、何の参考にもならないのと同じ。
それにしても、時代の流れに合わせて生きていかなくちゃいけないのは、なんとも難儀なことだなあ。
流れの早い時代では、積んできた経験も、それほど役には立たずってことですから。
50歳で結婚解除?
40歳を少し過ぎた頃でしたが、学生時代の男友達が面白いことを力説していたことを思い出します。
「50歳になったら、結婚はすべて契約解除してほしい!」
その時点で、パートナーの選び直しをしたいとのことでした。
返答はこんなことだったと思います。
- 個人的に解除すればいいよ。
- 制度にされても迷惑。
- もちろん、絶対にあんたを選ばないけどね(心の声)
一緒に暮らしているようでも、実はそれぞれの経験は違うので、成長の度合いにも価値観にも差が出てくるもの。
いつまでも結婚した頃の同じような価値観であるわけはないから、そういう制度も確かに悪くはない。
そういう制度があれば、確かに便利ではあるかも。そして、人の態度は変わるかもしれない。
同じ人と契約更新を望むなら、もう少し相手に合わせる努力はする希望的観測。
いまなら、わたしは、どんな人をパートナーに選ぶだろう。ちょっと想像してみる。
〜しばし、瞑想〜
やっぱり、好みって、そんなに変わっていない気もする(笑)
それほど成長しているわけでもないな、きっと。
つまり、結婚ってなに?
いま、多くの人がひとりでいることを好む傾向があるように思えます。
わたしもその中のひとり。
それはすでに進化のレベルに達している気がしないでもなくて。もしかすると生物学的なレベルでの変化?
ひとりでは生きられなかったから、人は結びつこうとしていた。
ただり子孫繁栄に意味付けをするために、婚姻精度が作られてはきたけれど、テクノロジーの発達で、ひとりでも生きられる社会になってきつつあるのです。
結婚という形に縛られずに、子孫を育て、社会を維持できるシステムに移行していくことがあるかもしれません。
それは案外、近い将来のような気もします。
そして、子孫を残そうとするがゆえの生物学的なワナから解放されたときに、もっと自由に愛を語り合うことができるかもしれない。
愛なんてものが、あるとすればだけど。
どんな時代になるかは、誰にもコントロールできないこと。個人の思惑で動くほど、簡単な仕組みではないはず。
生物としての思惑、社会としての思惑、そんなものがぐちゃぐちゃに入り混じって、夫婦の形を作っていく。それが社会のベースになる。
面白そうだなあ。
こんなとき、つくづく思うのです。
長生きしてみたいなあって。
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お久しぶりです!
今回の結婚って何?について凄く面白く読ませて頂きました。ホントに、りっつんさんの言ってる通り、これからは結婚という形は変わっていくかも、しれない。どんな未来が待っているのか?私もちょっと長生きしてこの世界を、見届けたいと思います♪いつも楽しいブログをありがとうございます
寛子さん
こんばんは。
結婚の形って、よくよく変化するものらしいです。
これから50年後には、想像もできない形になっているかもですね。
長生きしたくなりますよね(笑)